インテリジェントメロンでは情報社会が梅棹忠夫氏の「外胚葉社会」を意味することはブログ002、003、004で述べた。実は、情報が重要であることは内胚葉社会(=農業社会)でも中胚葉社会(=工業社会)でも変わりはない。人は食料や安全の確保のために情報を求めるし、利便性の追求のためにも情報が必要だからだ。ただし、これらの社会における情報は、何らかの目的を実現するための手段だ。ところが外胚葉社会では、人々は手段としての情報だけでなく、目的として情報を求めるのだ。すなわち、内胚葉社会の食料や中胚葉社会の工業製品に相当するものとして、外胚葉社会の情報が位置づくのだ。それが外胚葉社会の特徴だ。アリストテレスは知を観想知、制作知、実践知に分けて観想知を最高の知と位置づけたが、その考えに近い。なぜならば制作知、実践知はモノの制作や行為をおこなうための知、すなわち手段としての知であり、観想知は目的としての知だからだ。外胚葉社会における情報は、人々の感性を充足する。遠い異国の政治状況のニュースやゴシップ記事、また、今日で言えばブログやSNSもその類だろう。それらは直接個人の生活に結びつかないと考えがちだが、人々はこれらの情報によって精神的充足を得ているのだ。梅棹氏によると芸術活動や宗教なども外胚葉社会に含まれるし、ブランド品や実用性の面からはまったく無駄な性能を有するスポーツカーなども含まれるという。これらには所有する喜びという精神的充足がある。
ここからは一般的な認識としての情報社会の話題だ。情報が目的か手段かということは関係がない。ひと括りに情報と考えていい。
情報社会という言葉は、あまりにも一般的になりすぎて今日では話題にすらならないが、コンピュータやインターネットの普及・発達によってもたらされた社会だという認識が大多数の見解だろう。このように特定の技術が社会に変化をもたらすと主張する考え方を技術決定論という。マルクスにその起源があるらしい。ITに関連した人物では、マーシャル・マクルーハンやアルビン・トフラーは技術決定論者だ。また、ついでに言えば、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスにしろ、セルゲイ・プリンにしろITのグル達は皆、少なくとも表面上は技術決定論者に違いない(そうでないと商売に繋がらない)。技術決定論に対して、「技術が社会を変えることなんてできない」と技術決定論に異義を唱える考え方を社会決定論とか文化決定論という。社会や文化の累積が社会変化をもたらす、という考え方だ。技術は、ある社会情勢の中で人々が求めたから生まれ、利用されたから普及したに過ぎない、という考え方だ。
情報社会の技術決定論に異を唱える学者は大勢いる。社会学者のギデンスは、情報社会は今日に始まったことではなく、近代と同時に始まったとしている。情報学者のヘッドリクによれば、情報時代は18世紀にヨーロッパで始まったというからギデンスと同じ認識だ(ダニエル.ヘッドリク「情報時代の到来」法政大学出版局)。18世紀は、三十年戦争が終結し、その後しばらくしてヨーロッパに近代国家が生まれ出した時代だ。ヘッドリクによらずとも、その頃のヨーロッパが社会的、経済的、政治的に大きく変化したことは数々の歴史書が記述するところだろう。
18世紀、各国は自国の国力把握のために測量や人口統計を盛んにおこない始めた。人口が国家の生産力や兵力に直結したのだ。近代的な国勢調査が始まったのも18世紀末である。統計学(statistics)の語源は、ドイツ語で国家学を意味する”Statistik”にあるらしい。国家学とは、まさに人口や経済などの国家に関わる調査を意味する。それが転じてstatisticsという言葉は、国家の調査に関わらずデータの収集と分析全般を意味するようになった。
このような国力の調査は大規模に及ぶことからデータの収集は国家単位または教会単位でおこなわれた。教会は教区の信徒数や出生率、死亡率などを把握するためには便利だった。当時すでに大数の法則は知られていたから、多くの数値を集めれば実態に近い結果を得られることがわかっていた。信ぴょう性の高い生命表が作られたのもこの頃が最初だ。
ライフネット生命保険の出口氏のブログによれば、数理的基礎に基づいた近代的な生命保険会社が誕生したのは1762年だという。氏によると、その前にもいつくか生命保険会社はあったようだが、これらの生命保険会社を含めて国家が作成した生命表を基にしてビジネスを始めたことには変わりない。
さて、ここまででお気づきになった読者はかなり鋭いが、今述べた内容から時代背景を取り除けば、まさにIT業界の今日の話題と符合する。すなわち、矢印の左が18世紀の出来事で右が今日だとすると、
・国家統計 ⇒ 統計
・国家や教会による大規模調査 ⇒ ビッグデータ
・国家が作成した生命表の利用 ⇒ オープンデータ
・数理的基礎に基づいた生命保険 ⇒ データサイエンスをビジネスに活用
と見事に対比できる。このように考えると、今日一般に認識されている情報社会の説明としてふさわしいのは技術決定論ではなく社会決定論のように思えてくる。少なくとも、コンピュータが誕生しビジネスで用いられ始めた1950年代からの歴史観だけで統計、ビッグデータ、オープンデータなどを捉えることは視野が狭いし、今後を見誤る可能性がある。ヘッドリクのいうように18世紀が情報時代の幕開けだとしたら、そこまで含めて情報社会を眺める必要があるだろう。そして重要なことは、18世紀と現代で何が同じで何が異なるかを見極めることだ。また、18世紀になくて現代にあるITが現代においてどのようなポテンシャルを持っているか考えることだろう。ただ単にITによって、データの捕捉網羅性、正確性、計算速度、流通範囲・共有範囲が格段に向上しただけなのか。もしそうであれば、それは単に量的な差異であり、程度問題に過ぎない。もしそうでなければ、すなわち、質的な差異であれば、その質的な差異をもたらした今日のITの効果は何だろうか。これらに自分なりの答えを見つけておくことが現代のITを理解し、ひいてはビジネスを考えるカギになるだろう。
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